ちょっと書きたいだけ

本当に自分がしたい生活を目指していこう!という自己宣言のためのブログ

エネルギー

好きではじめた資格取得のことについてのお話

 

時間があるのにやる気がでない。

やる気は出すものじゃなくて、やり始めたら出てくるものらしいが。

 

何せよ、時間があるのにやろうとしないのはなぜだろう?

疲れるからか?

思うように出来なかったら嫌だからか?

 

子供や友達がそんなことを嘆いていたら、

「まずは少しでもやってみなよ」

「5分でいいからやり始めてみればいいんじゃない?」

私は偉そうにそんなことを言うだろう。

まったく自分も同じ悩みをもっているのに、アドバイス的なことを投げかけると思う。

 

「そうだよね!やりたくないよね!サボっちゃえ!」

とは言わないし、言えない。

だって、それがいい結果を生むとは思わないから。

少しでもやる気を出させて、行動に導くほうがいいと思うから。

いやいやでもやらないよりはやったほうがいいと思うから。

 

どうしてわかっていても、できないのだろう?

誰かに励まして欲しいのか?

「君ならできるよ!」「がんばれっ!」

そう言われたいのか?

それでやる気になるのか?

 

いや、なんか違う気がする。

「やる気」になってからやりたい!と思っているのかもしれない。

 

私は嫌々やっているのではありませんよ!

やりたくてやっているのですよ!好きでやっているのですよ!

 

誰にアピールしたいのか知らないが、自分でそう思いたいのかもしれない。

 

そうしたいのなら、好きのエネルギーを保持しなくてはいけない。

好きならがんばれるでしょ?

好きなら続けられるでしょ?

 

世の中にはそういう人も大勢いるだろう。

好きなことなら寝ないでも出来るとか言う人もいるだろう。

 

でも、私は好きな映画を映画館で見ている最中に寝てしまったことが何度かある。

好きなクラシックコンサート中に大きな音でシンバルがジャンジャンなる中でも、寝てしまったこともある。

ちょっと違うが

中学の頃、帰る途中疲れて眠くて、もうこのまま歩くのをやめて立ち止まってしまいたい。と思ったことも何度もある。

親に叱られるのにが嫌だったから、あと一歩あと一歩と力を振り絞って帰っていた。

そんな大ごとではないのに、死ぬか生きるか位の気持ちだった。

「早く帰りたい!」とか、「早くご飯が食べたい!」とかよりも「もう歩きたくない」のほうが優っていたのだ。

 

だから、「好きなことなら何を差し置いてでもできるでしょ」「好きならがんばれるでしょ」

「やりたいことのためなら我慢できるでしょ」という考え方は、私には当てはまらない。

「何がなんでも勝ちたい」とか「あいつには負けたくない」とかもない。

 

あえて何か嫌なことをあげるとしたら馬鹿にされることだ。

それは誰からなのだろう?

誰からというよりも、こういうことかな。

 

一生懸命やってきたことを馬鹿にされるのは嫌だ。

どうしようもないことを馬鹿にされるのは嫌だ。

 

今までの私の頭の中を簡単にまとみてみたらこうなった。

 

「やってみたい」をやってみたら思った以上に難しい。

「やってみたい」<「やれるかな?」不安が出てくる。

「やれるかな?」<「やれるかも」やる気が出てくる。

「やれるかも」<「やっぱ無理かも」また不安がでてくる。

「やっぱ無理かも」<「でもやりたい」やる気が出てくる。

「やりたい」<「がんばれない」うまくいかなくて不安がでてくる。

「がんばれない」<「ちょっとだけなら出来るかも」行動することを重視する。

 

今の私はこんな感じで、「ちょっとだけなら出来るかも」の段階。

「やってみたい」を「やりとげる」ことが最終目的。

自分に寄り添いながら励ましてちょっとだけ行動していこう。

 

 

 

 

 

 

行きたくないお店

オーガニックのお店に入った。

探し物が見つからず、店員さんに聞く。

すぐに感じ良く案内してくれた。

 

レジでは、機嫌良くお客さんと笑顔で話しながら会計をする別の店員さん。

そのお客さんは、レジ袋3つ分、10,000円越えのお買上げだった。

 

私が買ったのは570円のもの1つだけ。

先ほどとは打って変わって無愛想で雑な会計だった。

そういう態度をとるんだなぁ。わかりやすい。

同じ人とは思えないほどの変わりよう。

お客さんに気分よく買い物させる気はないらしい。

 

もうあのお店にはいかないだろう。

 

 

 

 

なおしたい習慣

なおしたい習慣

「やりたいこと」より

「やりたいこと」をしてしまう。

 

おかしな日本語ね。

どういうことかというと、こんな感じ。

何か目標があって「やりたい勉強」や「やりたいトレーニング」が

あるとする。

でも今、空き時間が30分あったとしてもその「やりたい勉強」「やりたいトレーニング」には使わない。

今の瞬間思い浮かんだ「やりたいこと」をしてしまう。

例えば、録画しておいたドラマを見るとかゲームをするとか、スマホを見るとか。

 

すきま時間に勉強やトレーニングをすればいいのはわかっている。

それなのに、出来ないのは意志が弱いのか。

やりたいと思っていることに本気度が足りないのか。

30分くらいじゃ大した勉強やトレーニングできないだろうと思ってしまっているのか。

いずれにせよ、このままじゃいけないことだけはわかっている。

ナンプレにハマる

ナンプレにハマっている。

完成した時の達成感!爽快感!

これを味わいたくて、

また新たな問題にチャレンジしたくなる。

暇つぶし&脳トレのつもりで始めただけなのに、

いつの間にか、暇じゃないのにやってしまう。

 

他にも「やりたいこと」「やらなきゃいけないこと」

色々あるのにね。

 

必ず答えがあって解けるのがわかっているからこそ、

時間がかかってもチャレンジしたくなるんだろうな。

 

他の「やりたいこと」「やらなきゃいけないこと」を

後回しにしてしまうのは、明確な答えがないからかもしれない。

自分が、納得する答えがわからない。見えないから。

いつも、何にでも「正解」を求めているのかもしれない。

世の中「正解」があるものばかりではないのにね。

 

仕返しみたいなことはやめとこ

自分がされた事へのいら立ちを、相手に分からせようと同じことをするというのは、好きじゃない。

仕返しみたいで、何かいやな感じ。

たとえば、

友人AさんにLINE送ってから半日位返事がなかったからといって、Aさんから自分にきたLINEを来ていることを知った上で同じ時間放置する。とか。

 

自分がすぐに返信できるなら、すればいい。

わざと、「返事が遅いと嫌でしょー!この前、わたしはすごく嫌な思いしたんだよ。これでわかったでしょ」という静かな圧力を感じる。

 

そうすることで、やんわり教えてあげているのよ〜という感じなのだろうけど、私は見えない圧力が嫌いだな。私はそのやり方はしないでおこう。

ムスクの香

ムスクの香りが苦手。

香りが悪いわけじゃない。

私が苦手な香りというだけのこと。

 

ふと思った。

つける人が変わると香りへのイメージも変わるのかな?

自分好みのステキなジェントルマンがつけていたら、好きになるのだろうか?

それとも、苦手な香りのせいで、そのステキなジェントルマンのことすら苦手になるのだろうか?

 

香りって大切だなぁと思う。

 

馬鹿でかいクシャミ

40代男性が自宅にて、爆音のクシャミ。

周りにいる人は、跳び上がるほどビクッとする。

「うるさいなー!周りに迷惑だよ。もう少しコントロールできるでしょ」

と言うと

「突然のはムリ!我慢したら鼓膜やられるし」

謝りもせず、開き直ってくる。

「どんな時も?」

と聞くと、どんな場合でもコントロールするのは出来ないとのこと。

 

いやいや、出来るでしょ。

今までの人生の中で、クシャミの音をコントロールしてきたことあるはずだと思う。

 

まあ、こちらの40代男性はそんなことは不要だと思っているのかもしれない。

それはそれで、仕方ないと諦めるしかない。

でも、一言「ビックリさせてごめんね」とかいう言葉は欲しい。

他の動物とは違う人間なんだから。

 

仕方ないことはたくさんある。

でも、

「○○なんだから仕方ない」

そういう開き直りは嫌いだなあと思った。